★ 國史と日本史 ★

國史と日本史

こんばんは。そして、こんにちは。

ヒクシポワタの橋本と申します。


本日は、「國史(こくし)と日本史」。

私たちは子供の頃から、日本史と世界史を学んで
きました。自国の歴史を「日本史」という名前で。

しかしよくよく考えると、自国の歴史の事を
日本史と呼ぶのに妙な感じがしませんか?

例えば会社だったら、会社の歴史を「社史」と
言いますよね。
社内でわざわざ会社名を付けて、トヨタ史とか
言わないですよね。


國史と言えば内側からの言葉、日本史と言えば
外側から名付けた言葉
。

そんなニュアンスがあります。

では何故、國史ではなく日本史と呼ぶのか?


戦前は「國史」が正式名称でした。

國史は、国の在り方であり、どう考えどのような
流れがあったのかを表します。
そこに年代は余り関係せず、昔からずっと言い伝え
られてきた、習慣だった。などです。

我が国の場合は、神代から続く、神話からつながる
お話しです。古事記ですね。

国史はその国の人達たらしめる基本になるもの。
だから否定はできない。

何が起きたか?

戦後、改定できる学問として國史とは別に教育に入れ込んだ
のが「日本史」なんですね。

日本史は変更出来ます。

年代とか考古学の分野は発展や発達と共に変化する。

國史はアイデンティティーそのもの
なので変化させる事ができない。

なので、考古学の概念を入れ込んで新しく日本史として、
子供達に教えた。

その國のアイデンティティーを否定すると統治が出来な
くなるので、このような方法をとったようです。

國史は、長く育んできたアイデンティティーであり、外から
変えることが出来ないものだから。

もう少し説明しましょう。

例えば、キリスト教が存在して聖書がある。
そこには具体的な年代が書かれているわけでは無く、
(一部、体裁を保つために後に付け加えられるケースあり)
ストーリーが書かれていて、その国(=宗教)の基本になる
考えやアイデンティティーが記されている。

それを立証できないなどと言って「キリストは存在しなかった」
などと否定する人は居ない。

そこにキリスト様がいらっしゃった。という風に伝えられて
いるのだから、それは認めるべき物。
否定そのものがおかしい。

我が国も本来同じで、國史は否定されるものでは無いし、
実際に大々的に教育で否定などはしていない。

どうでしょう? 何となく言いたいこと分かってきました?

國史を否定する訳には行かないので、別個に「日本史」を作り
「改訂」できるようにして、教育に入れた。
それが今の「國史」ならぬ「日本史」というわけです。

国史では、神武天皇不在とか聖徳太子不在とか、
そのような外からの話しはあり得てはならない。
そこに済む民族がそのように考えて生きて来たことを
誰も否定はできないのです。
(戦後なら誰もが反対したはず)

だから、そこは否定せずに、
國史を教えるのをやめ、
日本史だけにした
。

だから、私たちは「神話」を習わない。

海外の大学で日本語や日本史を勉強するときは、
神話から教えるそうです。

日本の子供達に聞いてみてください。
神話、ほぼ知りません。何故って学校で教えないから。

だから「天照大神」を「てんてるだいじん」などと
読む子供が出てくる。子供達に罪はない。

海外の大学で日本文化を勉強すると
「
日本を理解するには神話が不可欠」
と、神話からスタートします。

古事記・日本書紀を1次資料として読み、
イザナミ・イザナギ、アマテラスの神話を
日本文化の源泉
として習うそうです。

なんでこんなことになったんだろう?


私が youtubeで良く見る動画は、外国人が
日本へ来て感動し、帰国してから「ジャパンロス」に
なってしまうってやつです。

高級寿司店や和牛を外国人に振る舞い、その感動を
動画にしてる日本人がいらっしゃる。
毎動画、数十万再生は見られてます.
これ見ると、日本食の素晴らしさに涙します。

「なぜ世界中の人が日本に来て感動するのか?」
「その源はどこにあるのか?」
「なぜ日本人自身はそれを自覚していないのか?」

日本人が自国文化の深さを自覚していないのは、
無知ではなく、自覚させない構造が作られたから
なのです。

誰かが意図したかどうかは分からない。
でも結果として、何百年も続いてきたものが、
この数十年で次々と消えている。
それは事実なのです。


今の時代、もう一度、古きを知って自分たちの良さと
役割を考え直したい。

そう感じる今日この頃です。

皆さんはいかがでしょうか?

お読みいただきありがとうございました。